浩洋子の四季

古季語を探して、名句・秀句を紹介します。

常楽(13)/小説「新・人間革命」

 

【常楽13】

 十月十日、ガルブレイス博士との対談を終えた山本伸一は、大阪へ向かった。関西での諸行事に出席し、さらに、静岡へ行き、総本山で営まれる熱原法難七百年記念法要に参列することになっていたのである。

 大阪への空路、伸一は、熱原法難について思索をめぐらした。

 熱原法難は、弘安二年(一二七九年)に、富士郡下方庄の熱原郷(静岡県富士市の一部)で起こった日蓮門下への弾圧事件である。

 その数年前から熱原郷では、日興上人によって天台宗滝泉寺の僧、さらには農民たちにも、弘教の波が広がっていった。滝泉寺は、多くの住僧がいる大寺院であり、その寺で、日秀、日弁らが、次々と正法に帰依していったのである。

 彼らは、日蓮大聖人の教えに歓喜し、勇んで寺内の僧たちへの折伏を進めていった。

 滝泉寺は、乱れ切っていた。

 同寺では平左近入道行智が院主代として権勢を振るっていた。彼は、北条一族であることを笠に着て、寺の財産を私物化したり、金を取って盗人を供僧に取り立てたりもした。また、寺の池に毒を流して殺した鯉や鮒を売るなど、およそ仏門に身を置く者としてあるまじき悪行を重ねてきた。

 また、滝泉寺は、天台宗でありながら、天台が伝えた法華経の教えを捨てて阿弥陀経を唱えていた。信仰の根本から狂いが生じていたのである。

 そうしたなかで、日興上人の教えを受けた日秀、日弁らは、日蓮大聖人の御心を体して、声高らかに唱題に励んだ。そして、念仏等の教えの誤りを鋭く指摘し、法華経の正法正義を訴え抜いていった。

 行智は、勢いを増す法華折伏の広がりを見て、院主代の地位が脅かされることを恐れた。遂に、大聖人門下となった僧たちに対して、脅迫という手段に出た。

 教えの正邪を見極めようともせず、保身のための弾圧が始まったのだ。権威、権力の美酒に酔いしれた者は、改革を畏怖する。

【「聖教新聞」2016年(平成28年)1月15日(金)より転載】


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