浩洋子の四季

古季語を探して、名句・秀句を紹介します。

常楽(20)/小説「新・人間革命」

 

【常楽20】

 信心に励むのは、「衆生所遊楽」すなわち、人生を楽しみ、悠々たる幸福境涯を築いていくためである。

 ともすれば人は、富や名声などを得れば幸せになれると考えてしまう。しかし、心の外に幸せを追い求め、欲望に翻弄されていては、本当の生命の充足も、満足も得られない。望んでいたものを手に入れたとしても、その喜びは束の間であり、すぐに空しさを感じてしまう。しかも、人間の欲望はますます肥大化し、次に求めるものが得られなければ不満が募り、不安に苛まれることになる。

 ここに、世間的な欲望の充足を求める「欲楽」の限界がある。それに対して仏の悟りを享受する最高絶対の幸福を「法楽」という。

 これは、外から得るものではなく、自らの生命の中から込み上げてくるものである。

 ゆえに、日蓮大聖人は、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書一一四三㌻)と言明されている。

 南無妙法蓮華経の唱題のなかにこそ、「法楽」すなわち真の遊楽があるのだ。なかんずく、大聖人が「我もいたし人をも教化候へ」「力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(同一三六一㌻)と仰せのように、自行化他にわたる信心の実践のなかにこそ、本当の遊楽がある。

 広宣流布に戦う人は、地涌の菩薩である。地涌の菩薩には「常楽我浄」の仏の四徳が具わっていると、大聖人は述べられている。

 「常」とは、仏及び衆生に具わる仏の生命が、三世永遠に常住することをいう。「楽」とは、苦しみのない安らかな境地である。「我」は、仏の生命こそが真実の我であり、何ものにも壊されない、主体的な強靱さをもっていることだ。「浄」は、清浄で、どんなに濁りきった世にあっても、滾々と湧き出ずる泉のごとく、清らかな生命活動を行えることをいう。

 この「常楽我浄」の境涯の確立があってこそ、真の「衆生所遊楽」があり、それは、死身弘法の決意と実践から生まれるのだ。

【「聖教新聞」2016年(平成28年)1月25日(月)より転載】


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