浩洋子の四季

古季語を探して、名句・秀句を紹介します。

葉桜/今日の俳句 ≪第2141号≫

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≪2016年(平成28年)5月19日(木)≫(旧暦4/13)


 葉桜や発つときめたるときの雨
     久保田万太郎

 葉桜の下帰り来て魚に塩
       細見綾子

 瀬の音して葉桜の山泊り
       神原栄ニ

 葉桜や携帯電話に尾が見えて
       あざ蓉子

 葉桜の迷路を抜けて青い風
   わたなべじゅんこ

 


※ 葉桜。
 花時の桜は連日人を集め、その美しさを賞でられる。しかし花時を過ぎ余花となるころから、もとの静けさが戻り、訪れる人がなくなる。花が終り、サクラしべを地面がうす赤くみえるほど落とした後の桜は、なにかふっきれたかのようになり、こんもりとおびただしい数の葉をつける。枝垂桜の古木などは葉の重みで枝が地面についてしまうほどである。新緑の萌えたつ五月の桜並木ウを歩くと、青葉、若葉のトンネルとなり、吹きぬける風に一斉に葉を騒がわせる。あたりには桜餅の葉と同じ桜の葉の香りがほんおりとただよう。

【「現代俳句歳時記(夏)/角川春樹編」(角川春樹事務所)より転載】

 

 


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       ※☆*わが友に贈る*☆※

 

  「病によりて道心は

  をこりて候なり」

  苦難の時こそ

  宿命転換の好機だ。

  断じて病魔に打ち勝て!


       2016年5月19日

 

 

       ※☆*寸 鉄*☆※

 

 創価学会常住御本尊の記念日。師弟誓願の祈りと闘争で地涌の陣列を拡大

      ◇

 熊本の日。苦難に負けず、挑みゆく共戦の勇者よ!新生の歩みを世界が祈る

      ◇

 広布には新時代に応じた新しい熱と力が不可欠だ―恩師。青年よ一人立て

      ◇

 人を不幸にして自分だけ幸福になる事などない―哲人。自他共に幸の道を

      ◇

 「よるは用心きびしく」。女性は暗い道等避け早めに帰宅を。絶対無事故で


聖教新聞:2016年(平成28年)5月19日(木)付】

 

 

      ※☆*名字の言*※

 

手渡された飛行機のチケットに記された年齢が、随分と大きい数なので、「失礼じゃない。これ間違ってない?」と言うと、「恐れ入りますが……」となだめられた。勘違いしたのは自分のほうだった。かつて、女優の岡田茉莉子さんが、本紙のてい談で紹介したエピソードだ

自分の年齢を忘れるほど、熱中できるものを持つ人は若々しい。「あっという間に年月がたってしまった」と話す人も多い。それは、一瞬一瞬を大切に生きている証しでもあろう

一方で岡田さんは、てい談で、こうも語った。「年齢を重ねなければできないことって、世の中にいっぱいありますもの」「百歳になって八十歳ぐらいのおばあさんの役ができたら最高ですね」。そこには精進を重ねる人ならではの、心の若々しさと円熟がある

信心して63年、今年で卒寿(90歳)を迎える壮年部員がいる。「青年部を先頭に!」と、若い人にエールを送りつつ、会合では、いつも最前列に座る。座談会などで発言する際、壮年は決まり文句で話を結ぶ。「私は今こそですね、広布を語り抜くんだと決意しております」

境涯を大きく開く“まことの時”――それは「来る」ものではなく「つくる」もの。今がその時と、一日一日を積み重ねる生き方でありたい。(代)


聖教新聞:2016年(平成28年)5月19日(木)≫付】

 

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【コラム「北斗七星」】

公明新聞:2016年5月18日(水)付

国のハンセン病隔離政策を憲法違反と断じた熊本地裁の判決から5月11日で15年がたった。1931年成立の旧「らい予防法」によって患者の強制隔離が法制化。40年代に特効薬が開発され、治癒可能になっていたのに53年の新法でも変わることなく、96年の法廃止まで患者や家族を苦しめ続けた

深く傷つけられた名誉の回復は、2001年の違憲判決に続く、政府の控訴断念と首相の謝罪、そして衆参両院での国会決議でようやく緒についた。控訴断念に至る過程での坂口力厚労相(当時=公明党)の奮闘は、今も記憶に新しい

5月2日、最高裁の寺田逸郎長官が記者会見で、ハンセン病患者の裁判を事実上、隔離された「特別法廷」で開いていた問題について初めて公式に謝罪した。1948年~72年に療養所や、刑務所、拘置所などで95件行われた裁判だ

災害によって裁判所が使用できない場合を想定した規定を、違法に拡大解釈したと認め、長官は「差別の助長につながる姿勢があったことは痛恨の出来事だ」と述べた。行政、立法、司法の三権が、差別に覆われていたことを認めたことになる

ある新聞のコラムは、この謝罪を受けて「次はマスコミの番だと考える」と深い自戒の念を表した。その時その時の「当たり前」に流されてはならない。改めて、そう思う。(繁)