浩洋子の四季

古季語を探して、名句・秀句を紹介します。

力走/五十八〈小説「新・人間革命」〉

 


力走 五十八/法悟空 内田健一郎 画 (5815)

 万次郎は、皆から「ジョン・マン」と呼ばれた。それは、捕鯨船ジョン・ハウランド号」の船名にちなんだ愛称であった。
 彼はよく働き、捕鯨船の乗組員たちから愛されていた。なかでも、船長ホイットフィールドは、向学心旺盛で聡明な彼を、息子のようにいとおしく思い、アメリカで教育を受けさせたいと考える。
 万次郎は、ホイットフィールド船長と共にアメリカ本土へ渡り、マサチューセッツ州のフェアヘイブンで学校に入る。英語、数学、測量、航海術等を学んだ。農業などを手伝いながら、猛勉強に励んだ。船長の恩に報いようと必死だった。成績は首席であった。
 卒業後は捕鯨船で働き、航海士となるが、やがて帰国を決意する。日本にいる母のことも、心配で仕方なかったにちがいない。また、次第に険悪化していく日米関係を危惧し、開港を訴えなければならないとの強い思いがあったとする見方もある。
 万次郎は、帰国資金を作るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへと向かう。遭難から九年、既に二十三歳になっていた。金鉱で採掘に取り組み、資金を得た彼は、サンフランシスコから商船でハワイに渡り、ホノルルにとどまった仲間と再会し、日本へ戻る計画を練った。
 いまだ鎖国は続いている。結果的にその禁を破ったのだから、死罪も覚悟しなくてはならない。彼は、琉球をめざすことにした。琉球薩摩藩の支配下にあるが、独立した王国であったからだ。上陸用のボートを購入し、上海に行く船に乗せてもらった。琉球の沖合で、ボートに乗り換えた。
 彼が、琉球、鹿児島、長崎、土佐で取り調べを受け、故郷に帰ったのは、嘉永五年(一八五二年)、二十五歳のことであった。
 万次郎は、常に希望を捨てなかった。行く先々で、その時に自分ができることにベストを尽くした。だから活路が開かれたのだ。
 「希望は、嵐の夜の中に暁の光を差し入れるのだ!」(注)とは、詩人ゲーテの叫びだ。

 小説『新・人間革命』の引用 文献
 注 「プロゼルピーナ」(『ゲーテ全集4』所収)高橋英夫訳、潮出版社

 主な参考文献
 中浜明著『中浜万次郎の生涯』冨山房
 中浜博著『私のジョン万次郎』小学館
 中濱武彦著『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』講談社
 「ジョン萬次郎漂流記」(『井伏鱒二全集第二巻』所収)筑摩書房

 

【「聖教新聞」2016年(平成28年)6月1日より転載】

 


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