浩洋子の四季

古季語を探して、名句・秀句を紹介します。

清新/十六〈小説「新・人間革命」〉

 

清新/十六 法悟空 内田健一郎 画 (5841)


 元藤裕司は、釜石の、そして、三陸広宣流布を心に描いた。そのために“自分に何ができるか”を考え、身近なことから第一歩を踏み出そうと思った。
 “地域の同志のために、「聖教新聞」の配達をやらせてもらおう!”
 彼は、意欲的に、仕事、学会活動に取り組んだ。やがて結婚した。勤務していた建築会社の倒産、自身や義父母の入院・手術などが続いたが、常に唱題を根本に、一つ一つ乗り越えていった。空気圧機器の大手企業への就職も勝ち取った。地域貢献になればと、消防団の活動にも参加した。
 元藤は、よく妻の福代と語り合った。
 「私たちは、学会員として、地域の人たちの幸せのために生きよう!」
 福代も、山本伸一が出席した水沢文化会館での行事に参加し、激励を受けていた。
 裕司は、岩手が生んだ詩人・童話作家宮澤賢治が好きであった。その作品のなかでも、「雨ニモマケズ」の詩に心が引かれた。
 「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ……」(注)
 雨にも、風にも、雪にも、夏の暑さにも負けない体と強い志をもって、淡々と質素に生き、苦悩する人びとと同苦し、寄り添い、献身する心に共感を覚えるのである。
 自分もそんな生き方をしようと心に決め、ひたすら三陸広宣流布に走ってきた。支部長も務めた。「“地域の柱”に」との伸一の言葉が耳から離れなかった。また、「其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつり候ぞ」(御書一四六七ページ)との御文を心に刻み、猛然と走り抜いてきた。
 ――二〇一一年(平成二十三年)三月十一日、あの東日本大震災が起こった。三陸は大地震、大津波に襲われた。元藤の住む釜石でも、多くの地域が街ごと流された。マンションの四階まで津波にのまれた。
 この苦難の大波に、彼は、身悶えながらも挑み続けた。信心ある限り、光はある。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 『宮澤賢治全集第十二巻』筑摩書房=現代表記に改めた。

 

【「聖教新聞」2016年(平成28年)7月2日より転載】


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