浩洋子の四季

古季語を探して、名句・秀句を紹介します。

〈小説「新・人間革命」〉

 

清新/四十八 法悟空 内田健一郎 画 (5873)


 宗教者が、自ら信奉する教えに対して強い確信をいだくのは当然であり、それなくしては、布教もできないし、その教えを精神の揺るがぬ柱としていくこともできない。
 大切なことは、その主張に確たる裏付けがあり、検証に耐えうるかどうかということである。確かな裏付けのない確信は、盲信であり、独善にすぎない。
 日蓮大聖人は「法華経最第一」とし、その法華経の肝要こそが南無妙法蓮華経であると宣言された。そして、確かな根拠を示さずに法華経を否定する諸宗の誤りを、鋭く指摘していった。それをもって大聖人を、独善的、非寛容、排他的などという批判がある。
 しかし、全く的外れな見方といえる。大聖人は、比叡山など各地で諸宗諸経の修学に励み、文証、理証、現証のうえから、それぞれの教えを客観的に比較研究して精査し、結論されたのだ。つまり精緻な検証を踏まえての確信である。
 また、仏教の真実の教えとは何かについて、広く論議し、語り合うことを、諸宗の僧らに呼びかけ続けてきた。そして「智者に我義やぶられずば用いじとなり」(御書二三二ページ)と、かりに自分以上の智者がより正しく深い教えを示すのであれば、それに従おうと明言されているのだ。
 そこには、宗教こそ人間の生き方、幸・不幸を決する根本の教えであるがゆえに、徹して独善を排して真実を究明し、公にしていかなければならないという、真摯な探究、求道の姿勢がある。同時に、破られることなど絶対にないとの、大確信に基づいた御言葉であることはいうまでもない。
 堅固な宗教的信念をもって、開かれた議論をしていくことと、排他性、非寛容とは全く異なる。理性的な宗教批判は、宗教の教えを検証し、また向上させるうえで、むしろ不可欠な要件といえる。
 一貫して公的な場での法論を主張する大聖人に対して、諸宗の僧らは、それを拒み、幕府の権力者と結託し、迫害、弾圧を加えた。

 

【「聖教新聞」2016年(平成28年)8月10日より転載】


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