小説「新・人間革命」
源流 二十四 法悟空 内田健一郎 画 (5915)
ICCRの歓迎レセプションが終わると、山本伸一は、急いでニューデリーにあるホテルへ向かった。インドのメンバーをはじめ、日本から来た「インド文化研究会」一行らとの会食懇談が予定されていたのである。
会場の入り口でインドのメンバーが、「センセイ! ヨウコソ!」と言って、伸一と妻の峯子に歓迎のレイをかけた。
二人が会場に入ると、歓声があがり、参加者は立ち上がって大拍手で迎えた。伸一たちは、各テーブルを回った。インドのメンバーのテーブルで彼は、「お会いできて嬉しい」「あなたのことはよく存じ上げております」と一人ひとりに声をかけ、握手を交わした。
一九六一年(昭和三十六年)、伸一がインドを初訪問した時、インド人の学会員を目にすることはなかった。その六年後の六七年(同四十二年)にようやくメンバーは三人になり、七〇年(同四十五年)にはインド初の地区が結成され、七三年(同四十八年)ごろからニューデリーやボンベイ(後のムンバイ)などで座談会が開かれるようになる。
七五年(同五十年)には二十人ほどが参加して第一回インド総会が開催された。また、機関紙「ニュースレター」も発行されている。
そして今、インド広布の決意に燃える約四十人のメンバーが、全インドから、喜び勇んで集って来たのである。
南部のタミル・ナドゥ州の州都・マドラス(後のチェンナイ)から列車で一日かけてやって来た同志もいれば、同州のセーラムから二日がかりで来た同志もいる。
また、東部の遠方から四日がかりで集った同志の喜々とした笑顔もあった。
伸一は、十八年前、インドのブッダガヤを訪れた時、東洋広布を願い、天空に輝く太陽を仰ぎ見ながら、こう心で叫んだことが忘れられなかった。
“出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ”
今、十八星霜を経て、その萌芽の時を迎えたのだ。仏教発祥のインドの大地に、地涌の菩薩の先駆けが、さっそうと躍り出たのだ。
【「聖教新聞」2016年(平成28年)9月29日より転載】
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