浩洋子の四季

古季語を探して、名句・秀句を紹介します。

小説「新・人間革命」

 

源流 五十六 法悟空 内田健一郎 画 (5947)

 

 山本伸一は、ガンジスのほとりに立って空を仰いだ。既に夜の帳につつまれ、月天子は皓々と輝きを増していた。
 一陣の風が、川面に吹き渡った。
 伸一の眼に、東洋広布を願い続けた恩師・戸田城聖の顔が浮かび、月の姿と重なった。
 彼は、心で叫んでいた。
 “先生! 伸一は征きます。先生がおっしゃった、わが舞台である世界の広宣流布の大道を開き続けてまいります! 弟子の敢闘をご覧ください”
 月が微笑んだ。
 その夜、宿舎のホテルで伸一は、妻の峯子と共に、戸田の遺影に向かい、新しき広布の大闘争を誓ったのである。
 翌十二日、伸一たち訪印団一行はナーランダーの仏教遺跡をめざした。パトナから車で二時間余りをかけ、この壮大な遺跡に立ったのは、午後二時過ぎであった。
 鮮やかな芝生の緑の中に、歴史の堆積されたレンガ造りの遺跡が続いていた。回廊が延び、階段があり、水をたたえた井戸がある。学僧が居住し、学んだ僧房が並ぶ。
 紀元五世紀、グプタ朝の時代にクマーラグプタ一世によって僧院として創建され、次々に増築拡大されていったという。そして、ハルシャ朝、パーラ朝と、十二世紀末まで七百年の長きにわたって繁栄を続け、仏教研学の大学となってきたのだ。
 案内者の話では、ナーランダーの「ナーラン」は知識の象徴である「蓮」を、「ダー」は「授ける」を意味するという。
 ここには、インドのみならず、アジアの各地から学僧が訪れ、最盛時には一万人の学僧と千人もの教授がいて、仏法の研鑽が行われていた。計算上では教授一人に対して学僧は十人となり、小人数での授業が行われていたことが推察できる。
 師弟間の対話を通して、一人ひとりと魂の触発を図る――そこにこそ、人間教育の原点がある。また、それによって、仏法の法理は世界に広がっていったのだ。


【「聖教新聞」2016年(平成28年)11月7日より転載】


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